バイデン米大統領就任で、最後はトランプが勝つと信じていた陰謀論「Qアノン」の信奉者に動揺が広がった。
なんと日本の知識人の間でも偶然かどうかは分からないが、「Qアノン」の主張を丸写しにしたような主張をする人がいることに驚いた。

Qアノンは大統領選でバイデン氏の勝利が決まった後も、「就任直前にトランプが戒厳令を出し、軍が民主党幹部を逮捕する」「バイデン氏らはグアンタナモ収容所に送られ、トランプ政権は二期目に入る」といった陰謀論が生まれていた。

後から分かったことだが、例の知識人はこれと全く同じ予測を自信に満ちた口調で述べていた。これが外れたら信用失墜し多くの支持者を一挙に失うのではないかと他人事ながらも心配していた。

だが、20日のバイデン氏の就任式は何事もなく終了し、トランプ氏は南部フロリダ州へ去っていった。当然のことながら例の知識人の言い訳を聞きたかった。彼はこの期に及んでも主張を取り下げなかった。なんと云ったかというと「ディープステートの回し者たるバイデンは戦争屋の味方でありトランプ信奉者の報復を受けるであろう。闘いはこれから始まるのだ」と主張したのだ。しまいには宗教を持ち出す始末で、この種の見解は他の知識人にも蔓延している。懲りない面々だと思った次第だ。


2月1日の東京新聞に橋爪大三郎氏(社会学者)の「死の講義」というコラムが掲載された。それからほんの一部の要点を紹介させていただく。

今は科学の時代である。誰もがものごとを合理的に考える。では科学は、人間の死を解明駅るのか。
生き物の生命が途絶えることを、観察して説明できる。時計が故障したのと似たようなものだ。でも人間は精神活動をしている。一人ひとり違って置き換えられない。私はなぜここにいるのか?科学では答えられない問題だ。

無理に答えようとやってみる。両親から生まれたから。ではなぜ両親は出会った?偶然としか言いようがない。科学は因果関係で出来事を説明する。反復する出来事は法則に従う。一回だけの出来事なら偶然である。私がここにいるのは偶然そのものだ。—(中略)

世界の宗教が共通して言っているのは、人間は死んだら終わりではない、ということだ。それは、科学的で合理的には主張できない。けれども、科学や合理的な考え方と両立しないわけでもない。科学を信じながら、宗教を信じても一向にかまわない。現に世界には、宗教を信じる科学者は大勢山ほどいる。

ただし、それが宗教である必要はない。よりよく生きるために死を考える。この社会と人生の在り方をみつめる。自分なりの生き方のスタイルを選びとる。それを一人ひとりがやってみよう。世界にたった一人しかいないわたしの充実を、見つけ出すのはわたしの役目だ。それは人間として生まれたわたしの、自分への義務ではないだろうか。
(以上で引用おわり)


反知性と闘うには単なる科学的合理主義では駄目だ。橋爪氏のコメトにあるような柔軟な考え方が必要ではないだろうか。特に新型コロナウイルスに立ち向かうにはおおいに参考になる考え方だと思う。

感染症学会では変異種と呼ばないで、変異型、変異株と呼ぶこととしたようだ。変異種は月替わりで変わるようなマイナーチェンジを、変異型・変異株はモデルチェンジを意味する。

変異型やワクチンについてはまだまだ分からないことが多い。おそらくここ4~5か月はこの問題が中心となるだろう。情報収集に精力を傾けご報告することにする。